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Top Page >> 書画ストア  >島津忠良(日新公)について
貴久は
また、貴久の子の
特に忠良の孫にあたる義弘は天下分け目と呼ばれた「関ヶ原の合戦」で、徳川家康の本陣を正面突破して退却する離れ業を見せたことは、非常に有名な話として後世に残っています。
話を島津忠良に戻します。忠良は明応元年9月23日(1492年10月14日)島津氏の分家・
忠良は幼少の頃から非常に「聡明・利発」と謳われた子供で、また非常に信心深く、かつ自愛溢れる性格だったために、その将来を嘱望され、一族の相州島津家の養嗣子として迎えられました。
相州島津家(つまり、相模守を受け継ぐ家)や薩州島津家、豊州島津家などなど、島津家と一言に言っても、様々な一族がいたのです。 そして、忠良の時代には、それらの一族同士が互いに争い合い、戦が絶えない日々が続いていました。
室町時代から戦国時代にかけての島津氏の歴史は、一族同士の争いの歴史とも言えるでしょう。
相州島津家を継いだ忠良は、島津氏第14代の守護職を務めていた
また、前守護職の勝久は、忠良の旧領であった薩摩国日置郡伊作に退隠したため、忠良は剃髪して、その後「
しかしながら、これに不満を持っていたのが、一族の薩州島津家の
実久と忠良・貴久親子の戦いは長期間に渡りましたが、結果、忠良・貴久親子は、その頃実久勢の居城であった加世田別府城を攻撃し、攻め落とすことに成功したのです。
戦勝した忠良は、この戦果に驕ることも無く、別府城攻めで戦死した者達を弔うため、「六地蔵塔」という供養塔を建立し、敵味方の区別なく、その菩提を弔う行いをしました。
ここにも忠良の非常に慈悲深い一面が顕れています。
そして、忠良・貴久親子は、最終的に反旗を翻した実久を降伏させることにも成功し、島津家を一つに束ねることへのきっかけを作ったのです。
この忠良・貴久の働きにより、長らく続いた島津家の内乱はようやく沈静化し、島津家が薩摩・大隅・日向の三州を統一する基礎が確定するのです。